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<   2016年 05月 ( 16 )   > この月の画像一覧

京都、東寺境内散歩

  何年か前、訪ねた時は土砂降りで歩けなかった東寺境内を歩いてきました。
  夕方だったので、広大な境内はとても静かでした。
  ※東寺の正式名は教王護国寺。
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  五重塔(国宝):新幹線からも見え、京都のシンボル的建物。
  高さ54.8mで木造の塔では最高。
  内部には空海が唐から持ち帰ったらしいという釈迦の骨(仏舎利)を安置する。
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  講堂(写真手前)と金堂(前方)
  講堂(重文)にはかの有名な立体曼荼羅を構成する諸仏(国宝16、重文5)を安置。
  大日如来像を中心に、仏を菩薩、如来、明王の3っに分け、四方に四天王と梵天、帝釈天
  を配置する。
  金堂(国宝)には薬師三尊(薬師如来、日光、月光菩薩)、十二神将(以上、重文)を安置。
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  本坊(写真左側)と講堂と緑豊かな木々。
  静かな境内でした。
  毎月21日には「弘法さん」と呼び親しまれる縁日が開かれる。賑わうのだろう。
by bonjinan | 2016-05-28 10:19 | 旅、散歩

京都、建仁寺 sanpo

 京都、建仁寺を訪ねた。
 1202年の開創、京都最古の禅寺(開山は栄西禅師、開基は鎌倉幕府2代将軍・源頼家)。
 境内は、整然として美しく、明るさがある。
 特に、方丈庭園は美しい。何回も来たくなる寺院の一つ。
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  勅使門(八坂通側)
  名前のとおり天皇の使いだけが通る門。かつては開かずの門だった。
  今は開かれているものの柵で通行止めになっている。
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  三門(空門、無相門、無作門の三解脱門)、またの名を望闕楼(ぼうけつろう)
  勅使門、三門に続いて法堂、方丈が一直線に並んでいる。
  またこれに並行して両側に塔頭が並ぶ整然とした伽藍配置。
  植栽された松の緑が伽藍とマッチし美しい。
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  本坊に入るとまず迎えてくれるのが俵屋宗達「風神雷神図屏風」(国宝、複製品)
  禅寺に華やかさをもたらしている。
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  方丈の前庭・大雄苑:白砂部分が広く大らかな気持ちにさせてくれる。
  パンフレットに「ここにいるだけで、こころ静かに自らと向き合える」とあった。
  庭園を眺めていればそんな気分になってくる。
  庭から見える大きな建物は法堂。天井に迫力ある「双龍図」が描かれている。
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  方丈の裏庭:前庭に負けず劣らず美しい。また落ち着ける。
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  本坊中庭・〇△口乃庭:パンフレッドによれば「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態
  を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地口、水〇、火△で象徴したもの」という。
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  本坊中庭・潮音庭:中央に三尊石、左に坐禅石を配した味わい深い禅庭。
  もみじの緑が爽やかだった。

  参考:建仁寺ホームページ
by bonjinan | 2016-05-27 09:41 | 旅、散歩

京都、六角堂

  京都の旅、六にこだわり訪ねたのが「六角堂」。
  京の町の人々からは「六角さん」と呼ばれ親しまれている。
  正式名称は「紫雲山頂法寺」で創建は聖徳太子。
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  六角堂本堂、本尊は聖徳太子の持仏だったとされる如意輪観世音菩薩。
  貫主は代々、華道家元。本堂の柱に貫主・池坊専永と書かれた銘板が掲げられている。
  六角堂はいけばな発祥の地でもある。
  太子が沐浴された池のほとりに小野妹子を始祖とする住坊があったことから池坊と
  呼ばれるようになり、池坊の先祖が朝夕宝前に花を供えていたが、ついに生け花の
  名手として知られるようになり、生け花が広まったという。
  境内には京都の中心といわれる「へそ石」、「縁結びの柳」などもある。
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  上から見た六角堂、確かに六角形をしている。
  ところでなぜ六角形をしているのか。
  六角堂の御詠歌は「わが思う心のうちは六の角ただ円かれと祈るなりけり」。
  六の角は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生じる六欲を言う。
  角をなくし「六根清浄を願う」祈りを込めての六角だそうだ。
  ちなみに六波羅密寺の六は六波羅蜜(布施・持戒・忍従・精進・禅定・知恵)、
  六道珍皇寺の六は六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅堂・人道・天道)だった。

  参考:六角堂ホームページ
  
  補足:親鸞参籠の事
  聖徳太子を深く尊敬していたことから太子ゆかりの寺院として思いを寄せ、親鸞29歳の時、
  比叡山から六角堂まで100日間、参籠している。夜になると比叡山を下りて六角堂に籠り、
  朝には山に戻る繰り返しだったという。そして95日目の暁に如意輪観音からお告げを受け
  浄土真宗を開くきっかけを得たという。なお本願寺北山別院(一乗寺)には延暦寺からの
  行き帰りに身を清めたという御聖水がある。
  
by bonjinan | 2016-05-26 16:55 | 旅、散歩

京都、町のお堂

  今回の京都の旅、急ぎの旅でもなくぶらぶらと街歩きをした。
  京都の町には祈りの場所が多いことを改めて知る。
  以下、歩いた順。
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  六道の辻碑と六道の辻地蔵尊
  六道の辻の名の由来は、昔この辺りは鳥辺野(墓地)への入口にあたり、冥界への入口と
  考えられていたことによる。
  六道の辻地蔵尊(西福寺)には子育て地蔵尊との提灯が掲げられている。
  子育て地蔵の名の由来は、9世紀初頭、嵯峨天皇の皇后・檀林皇后が、親王が病に倒れた際
  にしばしば参詣し、無事快癒したことによる。
  道の向かいには「幽霊・子育飴」屋さんがある。この不思議な名前の飴屋さんにも母親の深
  い愛情話が伝わる。
  場所:六波羅蜜寺横
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  眼疾地蔵(めやみ地蔵、正式には仲源寺)
  もとは、鴨川の氾濫が治まることを願っての「雨やみ地蔵」と言われていたが、
  眼病にもご利益があるとされ「眼やみ地蔵」と呼ばれるようになったという。
  場所:祇園、四条通り
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  木屋町通り、高瀬川
  真夏のような暑さにみなさん水辺で涼んでいました。
  木屋町とは名前の通りかつては木材に関係した町であった。
  高瀬川は1611年、角倉了以・素庵父子により開墾された運河。高瀬は川底の浅いところ、
  浅瀬を意味し、高瀬舟はそのようような川で物資を運ぶ船のことを言った。
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  蛸薬師堂(永福寺)
  本尊は伝教大師が彫られたという薬師如来(蛸薬師)
  蛸薬師の由来は、病気の母のため蛸を買っているところを見られ、殺生を禁止されている
  僧侶がと咎められ、薬師様に助けを求めたところ、蛸は足を経巻にし池に飛び込み薬師様
  に変身し母親もたちどころに治したとの伝えによる。病気平癒祈願、がん封じ祈願などで
  訪れる人が多いという。 場所:新京極通蛸薬師下ル
  ほか周辺にはお願い事の専門寺院がたくさんある。
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  誓願寺
  女人往生の寺、落語の寺、芸事上達にご利益があるとされる寺。
  古くは和泉式部が誓願寺にお参りし仏心を得たという。
  場所:新京極通り
by bonjinan | 2016-05-26 16:13 | 旅、散歩

洛北、上賀茂神社界隈

  上賀茂神社界隈を歩くということで、大田神社、上賀茂の社家を訪ねた。
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  大田神社。上賀茂神社の東側にある境外摂社。
  芸能の神様として知られるが「かきつばた」の名所としても知られる。
  「神山や大田の沢のかきつばた深きたのみは色に見ゆらむ」(藤原俊成)
  ところが今年はほとんど咲かず。昨年、動物が荒らしたとか。
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  社家の街並み。
  上賀茂神社から流れ出る明神川沿いにかつての社家の家が並ぶ。
  社家とは神官の家、代々上賀茂神社の神官を務めたが最近は神社庁人事とか。
  ところで京の代表的な漬物といえば、しば漬、千枚漬、すぐき漬。
  上賀茂はすぐき漬の産地。社家の間で漬けられそれが広まったという。
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  社家、錦部家(現西村家別邸)庭園
  明神川から水を取り入れ、曲水の宴用の流れを作っている。
  神山(上賀茂神社の御神体)の降臨石を形取った石組が配されている。
  上賀茂神社神官家の格式の高さを偲ばせる。
by bonjinan | 2016-05-26 16:05 | 旅、散歩

上賀茂神社

  上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社)に参拝してきました。
  下鴨神社と並び京都最古の神社の一つ。世界遺産にも登録されている。
  毎年5月15日には京都三大祭りの一つ賀茂祭(葵祭)が盛大に行われる。  
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  楼門:朱塗りの社殿が周囲の緑に映える。
  我々観光客には神社のシンボル的社殿。
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  細殿と立砂(一対の白砂):広大な境内参道を進み二の鳥居を入るとまず目に入る。
  立砂は神様の降臨山である神山をかたどり、神が下りる憑代(よりしろ)とされている。
  左の立砂先端には三本の松葉(陽)、右には二本の松葉(陰)が添えられている。
  陰陽思想に基づき、奇数偶数が合わさることで神の降臨を願う意があるのだという。  
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  中門:楼門から進むと中門。透廊の先に国宝の本殿、権殿がある。
  お祓いを受け、本殿、権殿前へ。
  昨年は1973年以来の大規模な修理、式年遷宮が行われた。
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  御手洗川(みたらしがわ)から続く「ならの小川」
  清らかな川の流れに心洗われるようです。
  「風そよぐ楢の小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」
   (従二位家隆、百人一首98)
  もう1か月もすれば夏越祓(水無月祓)が行われるのだろう。
  そのほか境内には縁結びの社・片岡社、紫式部歌碑などもある。
  「ほととぎす 声まつほどは 片岡の 杜のしづくに 立ちやぬれまし」
  (紫式部 新古今191)ほととぎすの声:将来の結婚相手の声

  参考:上賀茂神社公式ホームページ  
by bonjinan | 2016-05-26 15:51 | 旅、散歩

京都、六道珍皇寺

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)、通称「六道さん」を訪ねた。
古来より、現世と冥界の堺、六道への分岐点が、この寺の境内辺りと信じられてきた。
ディープな京都の歴史に触れられる。
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山門と「六道の辻」碑
六道の辻の名称は、当時この地が平安京の東の墓地であった鳥辺野に至る道筋にあり、この地で野辺送りされたこと、後述する小野篁が夜ごと本堂裏の井戸から冥府に通ったことなどから冥途への通路として世に広まっていったと考えられている。
謡曲「熊野(ゆや)」の清水詣では「愛宕(おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、六道の辻とかや、げに恐ろしやこの道は、冥土に通ふものなるを」と謡われている。愛宕は地名で愛宕の寺とはかつて六波羅蜜寺付近で創建された現嵯峨野、愛宕念仏寺のこと。
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本堂と六道の辻中心付近に建つ三界萬霊供養塔
六道とは迷いある者が輪廻し続けるとされる地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道を指す。浄土教の基礎を創った源信の『往生要集』(985年)で示されている世界。お寺はお盆前の8月、精霊を迎える「六道まいり」(8月7~10日)で賑わう。
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迎え鐘:お盆にお精霊(おしょらいさん)を迎えるために撞くのでこの名称。
六道まいりには高野槙を購入。迎え鐘で迎えたお精霊さんが槙の葉に乗り移り、里帰りすると考えられている。紐を引き、鐘を撞くと、音響が冥途まで届くという。
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閻魔堂:小野篁(おのたかむら)作と伝わる閻魔大王と篁の木造が安置されている。
小野篁(802-853)は嵯峨天皇に仕えた官僚で武芸に秀で歌人としても知られる。
『百人一首』(11)に、遣唐副使を断り、隠岐に島流しされるときに詠んだ歌、「わたの原八十島かけてこぎ出でぬと 人には告げよあまのつり舟」(参議篁)がある。
高官ながら反骨精神旺盛で奇行が多く「野宰相」「野狂」とも呼ばれた。特記すべきは、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に務めていたという奇怪な伝説。夜ごと六道珍皇寺裏庭の井戸から閻魔庁に入り、閻魔大王を補佐していたという。
『今昔物語』巻20第45話に「小野篁、情により西三条の大臣を助くる語」に、病死して閻魔庁に来た藤原良相を閻魔大王との間を執り成し蘇生させたという逸話が残る。
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本堂裏の「冥土通いの井戸」(裏には入れず)
篁はこの井戸から夜ごと地獄に降りて行ったという。なお出口は一般には嵯峨野の福生寺(廃寺)だったと言われている。

参考:六道珍皇寺ホームページほか近くに、六波羅密寺六道の辻地蔵尊建仁寺

小野篁のこと余談
千本ゑんま堂(引接寺:いんじょうじ):開基・小野篁、本尊・閻魔大王、場所も閻魔前町34番地「風祭り」(7/1~7/15):小野篁が風となって冥界と行き来したことに由来。ここでも「おしょらいさん」(8/7~15)が開かれる。
紫式部とのこと:千本ゑんま堂には小野篁の墓と隣り合わせに紫式部(生没年不詳)の墓がある。両者の墓がなぜ隣り合わせなのかは分かっていない。京都にはもう一つ、島津製作所紫野工場の一角に両者の墓がある。
by bonjinan | 2016-05-26 13:52 | 旅、散歩

京都、六波羅密寺

 洛東、六波羅密寺を訪ねた。
 市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖と称された空也上人が951年に開山した古刹。
 寺の名前、六波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に至るまでの六つの修行のこと。
 六つは布施、持戒、忍従、精進、禅定、知恵。
 宝物館の空也上人像を見ていると忍従の僧を超えた気高さを感じる。
「ひとたびも 南無阿弥陀仏と いう人の はちすの上に のぼらぬはなし」空也
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  本堂:本尊十一面観音立像(国宝)で12年ごと開帳の秘仏
  本堂裏の宝物館では、南無阿弥陀仏を唱える「空也上人立像」のほか平清盛坐像などがある。
  清盛坐像は権力の権化としての清盛ではなく、求道者としての清盛が表現されている。
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  平清盛公の塚(写真左)
  かつて平氏全盛期には平家一門や家人・郎等の邸館が5200余もあった。
  当時、六波羅は平氏の都落ちまで平氏の代名詞(六波羅=平氏)でもあったという。
  安徳天皇の誕生地、高倉上皇の崩御の地であった。

  場所:京都市東山区五条通大和大路上る東
  詳細:六波羅蜜寺ホームページ

 (参考)六波羅探題の事
 鎌倉幕府の出先機関。1221年の承久の乱(後鳥羽上皇を中心とした討幕の乱)の後、
 幕府が設置した公家方の監視、洛中警護、西国御家人の統制を任務とした機関。
 六波羅にあった旧平清盛邸を改築し役所にした。場所は六波羅蜜寺の近くであった。
 1333年の元弘の乱(後醍醐天皇の討幕運動)の後、消滅している。
 話は逸れるが承久の乱における北条義時、泰時の一連の動き(上皇配流、六波羅探題
 の設置、後々の法の規範となる固有法である御成式目制定など)は、革命はなかった
 と言われる日本史にあって唯一の革命だった(大澤真幸『日本史のなぞ』朝日新書)
 という人もいる。六波羅は平清盛の時代から足利尊氏の挙兵(1333年)により探題が
 陥落するまで日本史の大きな舞台だったのだ。   
by bonjinan | 2016-05-25 21:52 | 旅、散歩

京都、岩倉具視幽棲旧宅

  国指定史跡、岩倉具視幽棲旧宅を訪ねた。
  岩倉具視(1825-1883)は、幕末から明治維新にかけての代表的政治家。
  混乱の幕末、攘夷運動の高まる中で、朝廷内の攘夷派から佐幕派の巨頭と見られ辞官。
  1864年から67年の4年間、幽棲した邸宅。
  しかししばらくして政治活動を再開。王政復古を推進した。
  岩倉の地で薩摩・水戸・土佐藩士らと交流。
  1867年には坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らが岩倉を訪問したという。
  この年、洛中帰住を許されるとともに、大政奉還となった。
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  表門
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  主屋

  場所:京都市左京区岩倉土蔵町100
  
  詳細:岩倉具視幽棲旧宅ホームページ


 
by bonjinan | 2016-05-25 17:26 | 旅、散歩

円通寺@洛北、岩倉

  比叡山を借景にした枯山水庭園で有名な洛北「円通寺」を訪ねた。
  円通寺は、後水尾上皇が1639年に造営した幡枝離宮跡。
  上皇が修学院離宮を造営したのち、禅刹に改められた寺院。
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  静かな境内
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  桧の向こうに望む比叡山
  都心とは違って涼しい風が流れ、そして静寂。
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  杉苔に覆われた平庭に石が配置された簡素な庭園。
  春は青もみじ、夏は蝉しぐれ、秋は紅葉。心に染みる庭園である。

  場所:京都市左京区岩倉幡枝町389
  アクセス:京都国際会館からタクシー

  補足:後水尾天皇(在1611-29、生1596-没1680)
  父・後陽成天皇との不仲、意に染まぬ秀忠の五女和子との縁組、幕府とのもめごと
  紫衣事件(1627年、後水尾天皇による大徳寺や妙心寺への紫衣勅許が問題として、
  幕府は沢庵らを流罪にした事件)などから幕府へ譲位を申し出ていたものの叶わず、
  突然、譲位。女一宮、明正天皇が8歳で即位。奈良時代以来の女帝誕生となった。 
  圧力を強める幕府に立ち向かいながら長く院政を敷いた。
  物言わぬことの代償として後の修学院離宮建設につながる。
  円通寺庭園を眺めると比叡山が上皇にとっての明日への希望の象徴だったと思えてくる。   
by bonjinan | 2016-05-25 15:50 | 旅、散歩