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カテゴリ:文化・歴史( 115 )

横山大観記念館

横山大観記念館(台東区池之端)を訪ねた。
記念館は近代日本画の巨匠・横山大観(1868-1958)が90歳で亡くなるまで暮らした自宅兼画室。木造2階建ての数寄屋風日本家屋と庭は大観が創案。細川護立侯爵から贈られた庭石を中心に石や植木の選定、配置なども自ら行ったという。大観は手入れの行き届いた庭より野趣あふれる庭を好み、庭を良く眺めることで絵画のヒントを得ていたという。現在の家屋は1954年に空襲で焼失する前とほぼ同じ形で再建されたもの。2017年に国の史跡及び名勝に指定されている。
なお庭には謂れは不明だが市松模様の袈裟型手水鉢(銀閣寺型手水鉢)が置かれている。
館内では現在、花鳥風月をテーマとした習作を中心とした作品、スケッチ帖、書簡などが展示されている。ここで知ったこと。日本画の宿命なのだろう、書き直しができなく、大観は何回も何回も納得するまで一から書き直し、最後に落款印を押したという。当たり前と言えば当たり前だが展示されている習作には落款印がない。ただ展示されている作品が習作と言えども単に練習用の絵ではないということだ。横山大観記念館だからこそ見られる絵なのかも知れない。日本画の未来に向けて果敢にチャレンジした技法「朦朧体」についてはここでは省きます。
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  横山大観記念館前庭(不忍通りに面した入り口から玄関に至る間の庭)

参考:横山大観記念館ホームページ
by bonjinan | 2019-05-23 20:48 | 文化・歴史

講談社野間記念館

目白通りに講談社野間記念館がある(文京区関口)。講談社の創業90周年事業として、創業者の野間清治氏の邸宅を改築して、2000年にオープンした美術館。野間氏が大正から昭和初期に収集したコレクションが中核を成すようだ。現在開催されている「村上豊展(後期、うつし世の情景)」(4/19~5/19)。村上豊(1936年~ )は1960年に直木賞を受賞した司馬遼太郎の週刊サンケイの連載小説「風の武士」の挿絵からデビューした画家。企画展では日本人の深層に潜む日本の原風景、人々のいとなみを描き出した作品が展示されている。ますますグローバル化し複雑化する現代社会にあって、描かれた世界を郷愁の世界に留めるのではなく、むしろこれから先、求めるべき世界観を提示しているのではないかと思えてきた。
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目白通りに面した講談社野間記念館入り口(写真中央)
左側に音の葉カフェ、花屋さん、椿山荘入り口へと続く。右側に行けば永青文庫、肥後細川庭園に通じる胸突坂。更には日本女子大、学習院大からJR目白駅に至る文教地区。写真を撮っている反対側には東京カテドラル聖マリア大聖堂がある。

参考:講談社野間記念館公式ホームページ
by bonjinan | 2019-05-06 14:34 | 文化・歴史

永青文庫

永青文庫(文京区目白台)を訪ねた。永青文庫は1972年、旧熊本藩細川家第16代当主細川護立侯爵によって設立された美術館で、日本・東洋の古美術を中心としたいわゆる細川コレクションが核となっている。(元細川首相は細川家18代当主で現永青文庫の財団理事長、館長)。
訪ねた時は春季展として「漆芸作家、高野松山 生誕130年展」(4/27~7/3)が開催されていた。
「高野松山(1889-1976)は熊本に生れ東京美術学校などで漆芸を学び、後に細川護立(1883-1970)の援助を得、目白台の細川邸内に住み込み「昼は殿様のボデーガード、夜に制作」という生活を送った。この間帝展等への出品を重ね、1955年には重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定されている」(同展パンフレッドより)。緻密な蒔絵作品を見ると高度な技術を駆使したものであることは私など素人からみても分かる。良いものを見させて貰った。
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写真は分館で1階にはカフェがあり、ビデオでは永青文庫の概要などが解説されている。

参考:永青文庫公式ホームページ

補足:横山大観との付き合い
芸術家のパトロンでもあった細川護立侯爵。永青文庫には横山大観の作品も展示されている。
また横山大観邸(池ノ端の現横山大観記念館)に細川邸の巨石を庭石として贈呈している。
by bonjinan | 2019-05-06 14:25 | 文化・歴史

新元号は「令和」

2019.4.1  新元号は「令和」
新元号は「令和」と発表された。万葉集にある梅花の歌32首の序文「初春の令月にして 気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」から引用されたという。ここでの「令」は「よい」の意味。令嬢、令名などで使われている。ただ「令」は命令の令も連想されることから圧迫感を感じるという人もあろうが良いように解釈し「令和」時代が良き時代になることを祈りたい。5月1日から適用される。

年号と元号
年号も元号も年に付ける称号という意味では同じだが使われ方においては違う。年号を最初に使い始めたのは古代中国・漢の武帝で、西暦紀元前140年に「建元」と号した。武帝はめずらしい兆候やおめでたい印が現れたときに年号を変更し、その治世に5つの年号が使われた。日本でも同じで明治天皇の前の孝明天皇の時代には自然災害などを契機にして6回年号が変わっている。日本初の年号は大化の改新で知られる「大化」で645年に始まり、南北朝時代のそれぞれの年号を合わせて平成まで247を数える。「令和」は248番目。一方、元号はひとりの天皇に対してひとつ(一世一元)で、そう決められたのは「明治」からであった。しかも元号は誰が決めるのかを含めて法的に決まったのは1979年(昭和54年)の元号法によってであった。このように年号にかわり元号が使われるようになったのは比較的最近のことのようだ。
(参考:中牧弘允『暦の不思議』イーストプレス、2019.1)


2019.4.29 令和はどんな時代になるのだろうか。
昭和が戦争と高度成長の時代。平成は戦争がなかったことでは平和な時代であったが東日本大震災など大きな自然災害に見舞われるとともに経済は停滞の時代であった。令和の時代は現状では各国とも国際協調より自国第一の政策に移りつつあり経済戦争、或いは新冷戦の時代に入るかも知れないとも言われている。わが国は平和と国際協調の中でのみ繁栄しうるのであり国際社会に向けて有益な考え方をどれだけ提案できるかがより重要な時代になってくるであろう。
by bonjinan | 2019-04-01 12:19 | 文化・歴史

貨幣博物館見学

日本銀行金融研究所「貨幣博物館」に入ってきました。
2015年11月にリニューアルされてからは初めての入館でした。
富本銭など改めて見てみたいなと思い入ったもの。
なお展示物の撮影は禁止なので写真はありません。
(富本銭)
『日本書紀』によれば、683年に銀銭の使用を禁じ、銅銭の使用を命じたと記されているという。発掘調査により、使用を禁じられた銀銭が無文銀銭(丸く中央に小さな穴があるだけ)で、同時に使用を命じられた銅銭が富本銭とされる。正方形の穴を中心に、縦に「富夲」、両側に「7つの点」が亀甲型に配置されている(七曜星)。かつて日本で最初に造られた銭貨は8世紀初頭に発行された和同開珎とされてきたが、今日では富本銭が最初の銭貨とされている。ただ和同開珎が街道筋など比較的広範囲で使われていたのに対して、富本銭がどの程度流通したかは定かではなく、七曜星の文様を見ると厭勝銭(ようしょうせん:まじない用)であったのではないかとの説が残るのもうなずける。
(いろいろな紙幣)
17世紀初頭に伊勢山田地方の商人により発行された日本最初の紙幣「山田羽書(はがき)」、各藩で発行された藩札、戦時中に発行された軍票、外地で発行された紙幣(横浜正金銀行券、五円券、百円札に「永遠通用」などと書かれた紙幣)、目の不自由な人のためにパンチした紙幣、加刷紙幣(最初に印刷した金額に対して新たな金額を追加印刷したデノミ対応紙幣)、預金引き出しに紙幣が追い付かず表面だけ印刷された海外紙幣などいろいろな紙幣があることを知りました。
(ほか面白いと思ったこと)
古代には13種類の銅銭が発行されたが(7世紀後半の富本銭~958年の乾元大宝)、材料となる銅の産出量が次第に減少したことなどから粗悪になり人々から嫌われ、銅銭は発行されなくなった時期があった。これを解消したのが12世紀半ば以降、大量に流入した中国の銭貨(渡来銭)あった。貨幣がなくなるとどうなるか。米や絹などがお金として使われた。米俵を背負って旅に出た絵があった。こんな重いものを持って旅に出たかどうかは定かではないが滑稽だ。ほか両替商の必須ツールであった秤、銀行マークの基となった分銅、蓄財を目的とした分銅金(375g、金含有率95%前後)など・・・貨幣にまつわる歴史を楽しめました。

詳細:貨幣博物館ホームページ
by bonjinan | 2019-01-11 22:05 | 文化・歴史

2018年ノーベル賞

2018.10.1 ノーベル生理学・医学賞に本庶佑氏
2016年ノーベル生理学・医学賞に本庶佑(ほんじょたすく、76)、京都大学特別教授らに授与されることになった。免役の働きを抑える物質を発見し、がんの治療薬「オプジーボ」の開発につながった。がん治療は、外科手術、放射線照射、抗がん剤の三つであったが、先生の開発した方法はもともと体に備わっている免役の仕組みを利用してがんを攻撃する第四の治療法。この治療法のもととなったのは、免役細胞の表面にあるPD-1というたんぱく質の発見。がん細胞がこのPD-1と結合し免役細胞を働かせないようにしていることを突き止めたことで(1992年)、その結合をブロックすればもともとの免疫細胞ががん細胞を攻撃し続けるはずとの発想で新薬が開発されたようだ。ただどんな薬もそうだが全てのがんに効くわけではない。また人により、その時の体の状態により免疫力が強すぎることによる薬害もでる。人の体は微妙なバランスで成り立っている。専門医と相談するしかない。
(語録)報道されている先生の言葉「Stick to the question(疑問にこだわれ)」、「何ができるかより、何をしたいか」、「ナンバーワンより、オンリーワンを目指せ」、「論文の90%はウソ」など。先生にとっては当たり前のことなのだろうが厳しい言葉だ。自立するとはこういうことなのかも知れない。先ずは疑い、自分の頭でどこまで考えたが重要ということだろう。
参考:http://www.nobelprize.org

by bonjinan | 2018-10-01 18:37 | 文化・歴史

大田区立龍子記念館

  大田区立龍子記念館を訪ねた。
  龍子記念館は、日本画の巨匠・川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受賞
  と喜寿とを記念して1963年につくられた記念館(1991年~ 大田区立)。
  現在、「ベストセレクション龍子記念館の逸品」(2018.4.28~8.26)開催中。
  伝統的な日本画とは違った迫力ある日本画を堪能できました。
  例えば、《筏流し》1959年、245×727cm
      《虎の間》1947年、245×727cm
      《爆弾散華》1945年、249188cm
      《波切不動》1934年、342×302cm
  川端は、日本画を床の間芸術から会場芸術に、あるいはパブリックアートに変えたと
  評される。巨大な絵ではあるが粗削りではなく軽妙な筆致、色使いには上品さがある。
  館内のスペースも広く、ゆっくり鑑賞できる。また行きたい美術館の一つ。
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  龍子記念館、
  写真の右側は龍子公園。旧宅とアトリエが保存されている。

  参考:大田区立龍子記念館ホームページ
by bonjinan | 2018-07-31 18:53 | 文化・歴史

幸福度ランキング

国連が20日の世界幸福デーを前に、14日発表した2018年版世界幸福度ランキングでは、1位フィンランド、2位ノルウェー、3位デンマーク、次いでアイスランド、スイスの順だった。日本は54位(昨年51位)。ちなみに主要国では、上記のほかオランダ、カナダ、ニュージーランド、スェーデン、オーストラリアは10位以内で常連国。ドイツ15位、米国18位、英国19位、ロシア59位、中国86位。調査は所得、自由、信頼、健康寿命、社会的支援、寛容の6項目を幸福の主な指標として156か国の幸福度を比較したもの。(出典:CNN.co.jp)
by bonjinan | 2018-03-15 18:39 | 文化・歴史

仁和寺と御室派のみほとけ展@東京国立博物館

 「仁和寺と御室派のみほとけ展」(東京国立博物館)に行ってきました。
  国宝24点、重文75点、うち秘仏8体、圧倒される規模の特別展。
  現地の寺院を訪ねても見られない仏様も拝むことができました。    
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  再現された仁和寺観音堂(ここだけ写真撮影可)
  仁和寺でも普段は修行僧の修行道場で非公開の場所。
  観音堂は現在工事中で、その間に企画された展示。
  千手観音立像を中尊に二十八部衆立像、両脇に風神雷神立像の33体を配置。
  三十三間堂(蓮華王院)の構成を模したと言われる。

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  正面の右側(雷神立像側)からみた仏様群
  諸仏の後ろの壁画、壁の裏側の壁画も写真で再現されたもの。

  どれもこれも魅せられる仏様、文化財ばかりでした。
  特に印象に残る仏様ほかを挙げれば以下の通り。
  ①国宝、薬師如来坐像(秘仏)、円勢・長円作、平安時代・1103年、京都・仁和寺蔵
   像長12cm。白檀を精緻に彫刻した仏様。歴代門跡の持念仏だった。
  ②国宝、阿弥陀如来坐像および両脇侍立像、平安時代・888年、京都・仁和寺蔵
  ③国宝、千手観音菩薩坐像、奈良時代・8世紀、大阪・葛井寺(ふじいでら)本尊。
   千手観音は一般に40本の手で千本を表すが、本像は大手・小手合わせ1041本ある
   という。合掌した手を中心に外に向け広がりを感じる見事なつくり。
  ④国宝、三十帖冊子、空海ほか筆、平安時代・9世紀、京都・仁和寺蔵
   空海(774-835)ほかが中国で書き写し持ち帰った、真言密教の秘書とされる。
  ⑤国宝、高倉天皇宸翰消息、高倉天皇筆、平安時代・1178年、京都・仁和寺蔵
   高倉天皇(1161-81)が兄・仁和寺第六世門跡・守覚法親王に宛てた手紙。
   祈祷により、中宮・徳子が後の安徳天皇を無事出産したことのお礼を伝える内容。
  (参考)守覚法親王の歌(壇ノ浦の戦いを知ってか、あるいは関係なくか)
  「常ならぬ この世のはてぞあわれなる おもへばたれも よもぎふのちり」
   *よもぎふ(蓬生):ヨモギなど雑草が生い茂る荒れ果てた所。   
  ⑥国宝、医心方、平安時代・12世紀、仁和寺蔵。当時の医学書。
  ⑦国宝、新修本草、鎌倉時代・13世紀、仁和寺蔵。当時の漢方薬書。
  ⑧重文、日本図、鎌倉時代・1305年、仁和寺蔵
   山城国を中心に南を上に北を下に描いた地図。
   房総半島が能登半島にみえたり不思議な感覚になる。

  参考: 「仁和寺と御室派のみほとけ展」HP、筆者ブログ記事「仁和寺」
      
by bonjinan | 2018-02-15 21:10 | 文化・歴史

ウィーン美術史博物館

美術史美術館ともいわれる世界遺産・美術史博物館(Kunsthistorisches)を訪ねた。
ハプスブルク家が収集した膨大なコレクションを収蔵するヨーロッパ屈指の博物館。
みどころは2階にある名画の数々、中でもフランドルの画家・ブリューゲルの作品の収蔵数は世界
最多という。もう一つの特徴はネオ・ルネサンスと分類されている博物館の建築技術と建築美だ。
まず入館するなり圧倒された建築美から振り返ってみようと思う。 

 《建築美》
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 美術史博物館外観
 フランツ・ヨーゼフ1世の命により建設された博物館(1891年に完成)。
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 2階への階段の様子。建築美に圧倒される。
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 天井の中央が吹き抜けになっているドーム型天井(1階の天井)。
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 柱もない1階天井の上が見事なカフェになっているから更に驚かされる。

 《絵画鑑賞》
 数ある作品のなかからここでは有名な3点をピックアップしたい。
 2つは何といってもブリューゲル(父)の作品から。次にフェルメールの作品から。
 (同美術館はフラッシュ撮影は禁止だが通常撮影は可)。
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 ブリューゲル『バベルの塔 Turmbau von Babel』1563年
 旧約聖書の創世記にある伝説上の塔。ノアの大洪水の後、人類が天に達するほどの高い
 塔を建てようとしたことに神は怒り、それまで一つであった言葉を混乱させて互いに通じ
 ないようした。そのため人々は意思疎通が図れず工事を中止し各地に散っていったという。
 人間の傲慢さに対する戒めとされる塔。実現不可能な計画の例えとしても使われる。
  
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 ブリューゲル『農民の婚礼』1568/69年
 農民画家と呼ばれるブリューゲルならではの作品。社会の下層に生きていた農民の、質素な
 しかも粗野なしぐさまでも忠実に描いている。しかしここには庶民への深い愛情と同時に
 権力者や聖職者への権力批判が込められているとされる。
 ほか『謝肉祭と四旬節の喧嘩』『ゴルゴダの丘への行進』『雪中の狩人』など鑑賞。

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 フェルメール『絵画芸術(絵画の寓意、アレゴリー)』1665/66年頃
 ギリシャ神話に登場する女神クリオ(祝福する女の意)を登場させフェルメール自身と向き合う
 構図をとることで絵画という芸術への礼賛、画家という芸術職業への自負を寓意表現していると
 される。手前のカーテンがアトリエの立体感を創りだし空気感まで伝わってくるようである。
 フェルメールは晩年の苦しい生活の中でもこの1枚を最期まで手放さなかったという。

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 子供たちが美術館で模写する様子
 立派な施設で最高の芸術に触れている風景をみるととてもうらやましい。
 この中から世界を魅了する画家、芸術で街を活気ずける人材が育ってくるのだろう。

(補足、ブリューゲルとハプスブルク家のこと)
ブリューゲルが活躍した時代は宗教改革が始まった後で教会からの絵画の注文が減り、フランドルでは風景、静物、風俗がテーマとなり市民が絵画を注文しだした時代、また諺や格言集が人気になった時代でもあった。ピーテル・ブリューゲル(1525年頃-69年)はこうした時代に当時の世相を深く観察し、諺を通して人間の本質、社会への警鐘を表現しようとした。表現技術を超えた気迫が感じられる。ただ分からないことがある。フランドル地方は当時、スペイン・ハプスブルク家の支配下にあったとはいえ、なぜ上流階級が嗜好すると思われる上品な絵ではなく、いわば社会派の絵画、風俗画を描いたブリューゲルの絵をたくさん集めたのだろうか(16世紀のフランスアカデミーでは歴史画、宗教画、神話画、風俗画、風景画、静物画といった序列をつけていた)。同家にはルドルフ2世のような異常なほどの収集家がいたことにもよるが、約650年続いた同家の歴史をみれば庶民の生活にも常に関心をもち同家の立ち位置を検証し続けていたとの答えは安直でほめ過ぎだろうか。

(補足、サリエラ)
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  ベンヴェヌート・チエッリーニ作『サリエラ』1540-43年
美術史美術館となるとどうしても絵画となるが素晴らしい工芸品も展示されている。その一つがサリエラ(イタリア語で塩とか胡椒入れ、ここではハプスブルク家の繁栄と切っても切れない塩と関係のある黄金の塩入れ)。フランス王・フランソワ1世の依頼によりフィレンツェ生まれの金細工師、彫刻家により製作されチロル大公・フェルナンド2世に贈られたもの(世界史的には15~18世紀半ばまでフランス王家とハプスブルク家は対立関係にあった筈。皇帝との関係を裂こうと画策してのことだったかなどどのような経緯で贈られたのかは?)。
by bonjinan | 2017-10-28 14:30 | 文化・歴史