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京都、六波羅密寺

 洛東、六波羅密寺を訪ねた。
 市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖と称された空也上人が951年に開山した古刹。
 寺の名前、六波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に至るまでの六つの修行のこと。
 六つは布施、持戒、忍従、精進、禅定、知恵。
 以下、宝物館の「空也上人立像」「平清盛坐像」を中心として記載します。
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  本堂:本尊十一面観音立像(国宝)で12年ごと開帳の秘仏
  本堂の隣の宝物館では、南無阿弥陀仏を唱える「空也上人立像」「平清盛坐像」などがある。
  「空也上人像」を見ていると忍従の僧を超えた気高さを感じる。
  「ひとたびも 南無阿弥陀仏と いう人の はちすの上に のぼらぬはなし」空也
  「平清盛坐像」では権力の権化としての清盛ではなく求道者としての清盛が表現されている。
  『平家物語』(巻第6、入道死去)によれば死に際にあっても「頼朝が首をはねてわが墓のま
  えにかくべし」と遺言し「悶絶びゃく地し遂にあつち死」したと語られている。
  罪深き人のイメージが先に立つ清盛であるが、「清盛坐像」を見ていると、栄華を誇りなが
  らも滅びてしまった清盛への供養を越え、見る人の内面に潜む清盛的要素を覗かれ、それを
  浄化してくれているのではないかと思わせる坐像であった。
  (注)源信『往生要集』(上)「欣求浄土 聖衆来迎の楽」より
  「およそ悪行の人の命尽くる時は、風・火まづ去るが故に動熱にして苦多し」
  清盛の死は「あつち死」(身悶えして飛び跳ねるようにして死ぬ)であったと言われる。
  まさに源信の『往生要集』で説かれた世界であった。
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  平清盛公の塚(写真左)
  かつて平氏全盛期には平家一門や家人・郎等の邸館が5200余もあった。
  当時、六波羅は平氏の都落ちまで平氏の代名詞(六波羅=平氏)でもあったという。
  安徳天皇の誕生地、高倉上皇の崩御の地であった。

  場所:京都市東山区五条通大和大路上る東
  詳細:六波羅蜜寺ホームページ

 (参考)六波羅探題の事
 鎌倉幕府の出先機関。1221年の承久の乱(後鳥羽上皇を中心とした討幕の乱)の後、
 幕府が設置した公家方の監視、洛中警護、西国御家人の統制を任務とした機関。
 六波羅にあった旧平清盛邸を改築し役所にした。場所は六波羅蜜寺の近くであった。
 1333年の元弘の乱(後醍醐天皇の討幕運動)の後、消滅している。
 話は逸れるが承久の乱における北条義時、泰時の一連の動き(上皇配流、六波羅探題
 の設置、後々の法の規範となる固有法である御成式目制定など)は、革命はなかった
 と言われる日本史にあって唯一の革命だった(大澤真幸『日本史のなぞ』朝日新書)
 という人もいる。六波羅は平清盛の時代から足利尊氏の挙兵(1333年)により探題が
 陥落するまで日本史の大きな舞台だったのだ。   
by bonjinan | 2016-05-25 21:52 | 旅、散歩