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バラにまつわる話

文学の歴史で初めてバラが登場したのは『ギルガメシュ叙事詩』だと言われている(Wikipedia”バラ”)。楔形文字で書かれた『ギルガメシュ叙事詩』は紀元前1800年頃、メソポタミアでそれまであったいくつかのギルガメシュ伝説が一つの話としてまとめられたもの。同書を読んでみると、危機を乗り越え不死の生命をもたらす植物は、深海に生える植物であり、バラそのものではないが、バラに似た架空の植物であることが知れる。それにしても美しいが棘あるバラは花の中でも特別な植物として意識されていたことは間違いない。

月本昭男『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店(1996)より、
「ギルガメシュよ、わしは隠された事柄を明かそう。
〔生命の秘〕密をお前に語〔ろう。〕
その根が棘藪のような草がある。
その棘は野薔薇のように〔お前の手を〕刺す。
もし、この草を手に入れることができるなら、〔お前は〔不死の〕生命を見出そう。〕」
・・・・・
それら(=石)が彼を深〔淵〕に引き込むと、〔そこにかの草があった。〕
彼はその草を取ると〔棘が彼の手を刺〕した。
彼はそれらの重い石を〔足から〕はずした。
〔深淵の〕海は彼を岸辺に投げ出した。
ギルガメシュは彼、舟師ウルシャナビに語った。
ウルシャナビよ、この草は危機〔をこえるため〕の草だ。」
それによって、人は生命を得る。
わたしはこれを囲いの町ウルクに持ち帰り、
老人にそれを食べさせ、試してみよう。
その〔草の〕名は「老いたる人が若返る」。
わたしも〔それを〕食べ、若き時代に戻ろう。」
・・・・・
ギルガメシュは冷たい水をたたえる泉を見て、
下って行き、水で身をきよめていた。
一匹の蛇がその草の香りを嗅いで、
〔音も〕なく忍び寄り、草を取り去った。
戻って行くとき、それは皮を脱ぎ棄てた。」

では絵画で初めてバラが登場するのはとなると、エーゲ文明のうち紀元前2000年頃、クレタ島で栄えたミノア文明の遺跡、クノッソス宮殿のフレスコ画に、青い鳥とともに描かれた花が最初だという(日本ばら会HP)。私のような素人がみると葉がオリーブのようでもあり、特定の花ではなく、楽園の象徴としての花とみえるが、古今東西の識者がバラと鑑定しているのでそうであろう。

その後の歴史を辿ると、クレオパトラ(前69-前30)のバラ好き、皇帝ネロ(37-68)のバラ狂い、歴史を下って、ダンテ(1265-1321)の『神曲』における「天上(至高天)における純白の薔薇」、ボッティチェリの描いた「ヴィーナスの誕生」(1485年頃)、シェークスピア(1564-1616)がしばしばバラを作品に登場させていること、ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ(1763-1814)のバラ好きなどバラにまつわる話は数知れない。ただ分からないのは、クレオパトラの時代において、私たちが今日みるような、そして誰をも魅了する大きな花弁のバラだったのだろうか。もしクレオパトラが部屋一杯にバラの花を敷き詰めカエサルやアントニウスを迎え入れたとすれば、常識的にはその頃から大きなバラが栽培さていたはずだ。確かに中東が原産と言われるダマスクローズのような比較的大きなバラもあったがそれでも現代のバラと比べると美しさにおいて大きさにおいて劣っていたのではないか。それに大々的にバラの人工交配が行われるのはジョセフィーヌの生きた時代からの筈だ。そうだとするならば、敷き詰められたバラは花弁だけではなく棘付枝のバラで大輪のバラこそクレオパトラと演出したかったと考えたらどうだろうか。そもそも数ある花の中からなぜバラは人々を魅了してきたのだろうか。今日みるような大輪の花であったからではなく、バラの魅力は棘とともにあり、容易に手にすることのできない象徴的な花として、人々は考えてきたのだと考えたい。そういえば最近、デパートの屋上庭園にトゲナシノイバラがあった。子供たちをケガさせない配慮からだが、棘がないと知るやどこにでもある花と思えてならなかった。西洋絵画では棘のないバラは聖母マリアさまの象徴とされている。秋篠宮眞子さまのお印、モッコウバラ(木香茨)には棘がない。これらはバラには棘があるとの先入観があるからこそできる演出なのだと思う。

(補足)至高天
地獄界と煉獄界(浄罪界)の存在する地球を中心として、プトレマイオスの宇宙観に基づき太陽を含む遊星が回り、その外側に恒星天、原動天、至高天(エンピレオ)があるとする。
ダンテは神と天使たちと聖者が住む最上界の至高天に辿り着き、純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。
「かくてクリストがその血をもって、新婦となし給うたかの聖軍(天上に住む聖者たち)が純白の薔薇の形になって私に現われた。」(天道編第31歌、野上素一訳『ダンテ』筑摩書房)
「私の高い空想力はここにいたって力が不足した、しかしすでに私の願望と意志とは、さながら等しく廻る輪のように太陽ともろもろの星を動かす愛によって廻っていたのである。」(同33歌)
(余談)後に『ヴィーナスの誕生』で知られるボッティチェッリ(1445-1510)は天国ではなく地獄に興味をもったのか『地獄の見取り図』(ヴァチカン図書館蔵)を描いている。

日本におけるバラの初めて物語
わが国の文学史上、はじめてバラが表われるのは奈良時代に編纂された『万葉集』のようである。
ただし、万葉集に詠まれた植物は約150種、歌数は約1700首と言われているが、野生の薔薇、野バラ(ノイバラ)が茨(むばら)として歌われるものの2首程度と極めて少ない。ノイバラは日本原産と言われており、万葉集が編纂される前からすでに日本にあったはずであるが、万葉人の心を強く動かすまでには至らなかったようだ。
「道の辺の茨(うばら)の末(うれ)に延ほ豆のからまる君を離(はか)れか行かむ」(丈部鳥、万葉集)離れがたき気持ちを棘あるバラに絡みつく豆で歌いこんでいる。バラの最大の特徴は棘と捉えたようだ。平安時代になると、薔薇(さうび、しゃうび)として表現され、『源氏物語』にも書かれている。「階(はし)のもとの薔薇(さうび)、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきなるに、うちとけ遊びたまふ」(第10帖賢木巻) (注)階(はし):庭から建物に上がる階段。きざはし。この時代になると、中国から渡来したであろうバラが鑑賞用として屋敷の庭に栽培されていたと推定され、「春秋の花盛りよりも」とあるので四季咲きのバラで、コウシンバラ(庚辰薔薇)ではないかと言われている。バラの種類が増えるのは江戸時代からで、植木屋・伊藤伊兵衛が記した『花壇地錦抄』(元禄8年、1695年)には13種のバラの名があげられ、西洋バラと思われる「らうざ」の名もでているという。
では絵画の方はどうだろうか。
伊達政宗公嫡孫「光宗公」の菩提寺・円通院(松島)にある霊廟・三慧殿の逗子に描かれたバラが日本最初のバラの絵と言われる。慶長遣欧使節団(1613-1620)を率いた支倉常長がヨーロッパから持ち帰った「日本最古の洋バラ」をモチーフとして描かれたもの。バラの花はローマ帝国以来、ローマを象徴し、同じく描かれた水仙はフィレンツェを象徴する花として描かれたという。その後の様子をみると、江戸後期に植物図鑑である岩崎灌園『本草図譜』(1828年)が著され比較的大きなサイズの黄薔薇が描かれ紹介されている。鎖国ながら長崎を通して入ってきたのだろう。ただしバラが大きく注目されるのは文明開化で西洋文明が盛んに流入するとともに洋バラが輸入され栽培されるようになった明治期と思われる。この時期には井関十二郎『最新薔薇栽培法』青山嵩山堂(1903年)などの著作も出版されている。最近では、宇宙飛行士の向井千秋さんがスペースシャトルで無重力状態下でバラの開花実験を行ったこと、サントリーにおける「不可能なこと」を花言葉とする青バラの作出など、最先端技術に関連した話題が多くなっている。
参考:松島・円通院ホームページ2011.6.16ブログ記事(松島)2010.11.17ブログ記事(青いバラ)

by bonjinan | 2015-05-15 11:35 | 文化・歴史