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徒然草より -貨幣経済の本質-

兼好法師(ca1283~ca1352)は『徒然草』の中で貨幣経済をどう記したか調べてみた。まずわが国における貨幣経済の始まりから振りかえってみる。わが国においてある程度広範囲に流通した最古の貨幣は和同開珎(708年)であった。しかし当時の社会は、自給自足を基本として不足する物を物々交換するような生活であったため幅広くは流通しなかった。貨幣が大量に流通するのは日宋貿易が活発化し宋銭が輸入された12世紀中ごろからとなる。平清盛が台頭してくる時代からである。鎌倉時代になると貨幣の利便性は誰もが認めるようになり、幕府と朝廷がともに宋銭の使用を認めたこともあって、貨幣の流通は加速した。13世紀に入ると年貢も貨幣で納められるようにもなる。兼好法師はそんな時代に生きた人であった。

「或る大福長者の云わく、『人は万をさしおきて、ひたふるに徳(=利益)をつくべきなり、貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。・・・』と申しき。そもそも、人は所願を成ぜんがために財(たから)を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。」(『徒然草』 第217段)  まるで今の資本主義社会を観察し書き記したようでもある。衣食住事足りてもなお将来を案じて蓄財に励む姿は大福長者のようでもある。さらに言うならば、実体経済が必要とする100倍ものマネーが世界を駆け巡る現代社会を予見していたかのようである。

「人は、おのれをつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるはまれなり。」(第18段)  あくなき所有欲を否定している。「賢き人の富めるはまれなり」の部分は素直に読んでも良いが、賢き人を小利口な人と読み替えるなど、アイロニーとして読むと一層、深みが増す。また貨幣と時間との関係において、「寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人をも富める人となす。されば、商人(あきびと)の一銭を惜しむ心切なり。」(第108段)とも述べる。まさに「時は金なり」の感覚である。しかし後段に「光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まらん人は止み、修せん人は修せよとなり。」と言っているように、時間は蓄財のためにあり、と言っているわけでもない。それぞれの願いが叶うよう過ごせと言っている。

参考:「時は金なり」は、米国の気象学者、政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-1790)の言葉とされる。ドイツの社会学者、経済学者として著名なマックス・ウェーバー(1864-1920)は著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、この言葉を資本主義の精神を表す言葉として引用しているという。なおフランクリンの『自伝』には13の徳目が著されており、プロテスタントの禁欲的生活、その延長としての資本主義の発展を窺い知ることができる。

参考:近年、市場主義がますます強まっている(市場主義とはあらゆることを需要と供給の関係でみ、これを金銭的に解決しようとする思考)。マイケル・サンデルによれば「市場の拡大によって、市場の論理と道徳の論理の区別が、また世界を説明することと改善することの区別がつきにくくなってきている」「経済原理が非市場的規範の律する社会慣行に応用されるとき、その(経済原理の)信頼性は低下する」と述べる。(マイケル・サンデル『それをお金で買いますか、市場主義の限界』早川書房、第2章インセンティブより)
by bonjinan | 2013-12-13 10:35 | 読書