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心のありか

心、気持ちはどこにあるのだろうか。かつては心臓にあると思われ、最近では概ね頭のどこかにあると考えられている。しかし頭のどこにありまたどのように保管されているのかについてはまだ確かめられてはいない。確かめられないということはそう思っているに過ぎないのかも知れない。しかし日常生活でよく使う。心ない観光客が・・・、(贈り物をする際)気持ちだけですが・・・など。心ない観光客がといえば、観光客の体のどこにも無いということで、逆に心ある人には頭のどこかにあることになるのだが、知りもしない他人の頭の中までなぜ分かるのか。気持ちだけですがといえば、贈り物というお盆に乗って、あるいは贈り物に形を変えて移動していくもののようにも思える。この2例の共通項を考えてみるとどういうことになるのか。どうやら心とか気持ちは体のどこかにあるのではなく、他人との関係の中にあるように思えてくる。しかも相手を知っていようといまいと、相手と何らかの関係さえあれば相手との関係の中にあるということになる。最近、多くの人が四六時中、携帯電話、スマホを通して相手と関係を持とうとしている。それほどまでして関係をつくろう、あるいは関係を保とうとしているのだろうか。先の論法で考えれば、そうしなければ自分から心や気持ちまでも消えてしまうのではないかと、恐怖を感じているからかも知れない。高度成長期には他人とは違う自己の確立こそ素晴らしいこと、言い方を変えれば、心や気持ちは相手との関係の中にあるというのではなく、自分と心や気持ちが一体としてあることに充実感を感じていた。その証拠に心技体ということばが流行っていた。三者バランス良くという意味で使われるのだが心は体の中にあるとの語感である。今は停滞の時代である。心、気持ちのありかが相手との関係の中に戻っているのだとすれば、今の世相こそ人間本来の姿に戻ろうとしていることの表れかも知れない。時代とともに心、気持ちのありかは微妙に動いているのかも知れない。
※先日、哲学者・内山節さんの講義「いのちとは何か」を受けた。内山さんの考える「いのち」を「心、気持ち」に置き換えて考え書いたもの。「心、気持ち」を「いのち」にまた戻しても内山さんのお考えと大筋合っていると思うが、違っているかも知れない。
補足
人間:「じんかん」とも読む。古くは人の住む世界。世の中の意味で使われていた(脚注)。人そのものの意味が加わったのは江戸時代以降だった。人と人との関係なくしては人が人らしくなくなり、そんな人ばかりでは世の中が成り立たないと認識されてのことだろう。なお世の中の意にこだわる人は「じんかん」と読むようだ。
「再び人間に帰らざるも理(ことわり)とこそおぼえけれ」(平家・二・剣)
再び人間界に戻らないのも当然のことと思われた。(古語辞典)
参考、2017.4
市民講座で京大・松沢哲郎先生のお話を聞く機会があった。どのようなお話の流れの中であったか定かではないが、先生は「心は脳の働き、脳無くして心なし」と極めて明快に話された。脳の働きとしての想像力の世界として考えれば当たり前といえば当たり前のことだ。
参考、2017.11.12
日経新聞にフィンランド語の”hajurako”(ハユラコ)という言葉が紹介されていた。物理的に適切な人と人との距離を意味するという。フィンランド人はシャイで群れることを好まないという。バス停で1mくらいの感覚を開けて並ぶ動画が話題になったが決して誇張ではないと紹介されていた。
by bonjinan | 2013-11-23 12:31 | 文化・歴史