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無常性を徹底させるとは

「今日ほど「無常」の事態を眼前にさらけ出してゐる時代は、さうざらにはない。現実の事態が「無常」なのである。・・・・もはや無常なるものの無常性を、徹底させるほかはない」(唐木順三『無常』)とはどいうことか。
先日、市民講座のテーマになった。倫理学者・竹内整一先生の話で分かったような気になったが時間が過ぎてみると、どう仰ったのかさっぱり思い出せない。無に帰してしまった。私には、まさに「ニヒリズムが普遍化し、すでにニヒリズムといふ実態が観念されえないほどに、ニヒリズムそのものが、のさばっている」(同『無常』)。いやそんな高尚な話しではない。単なるバカなのかも知れないと思いながらも、配布された資料をたよりに解釈を試みた。
無常なるものとはこの世の出来事のすべて。この世の出来事のすべては無常であるのだから、それを無常と嘆いても得るものは何もない。ならば無常なる世界にどっぷり漬かろうではないかということかも知れない。でも無常なる世界にどっぷり漬かるとはどういうことか。ニーチェは、「精神には駱駝の精神、獅子の精神、遊ぶ子供の精神の3段階があると言った」(『ツァラトゥストラはかく語りき』)。おそらく遊ぶ子供の精神、すなわち無心になれということなのかも知れない。だが待てよ、無常という言葉を知っている以上、やはり無常なるものの実態を理解した上でそれを乗り越えた能動的世界観に入れなければ唐木の言う無常性を徹底したことにはならない。もう少し考えてみよう。人が無常を感じる時というのは、思うようにならない、あるいは嬉しいことがあったとしても一時のこととして、過ぎ去ってしまった過去を振り返り、未来までも空しく感じるからだ。だからと言って過去をすべて消去してしまえば認知症になってしまう。だとすれば過去に影響されながらも過去とは違う今現在に集中して生きることだと考えれば幾らか答えに近づいてきたような気になってくる、が唐木の言う「徹底させる」という能動的な響きがやはりない。仏教の基本経典『般若心経』に「色即是空、空即是色」のことばがある。その意味は「前半は、あらゆるものを空とみることによって人間の煩悩や妄想を取り除くことをねらい、否定的であり、後半は、執着のない目でみたとき、あらゆるものがそれぞれの働きをもって生き生きと現象し存在していることを肯定的に表している」(江島惠教『日本大百科事典』)と書かれているという。無常という否定的ことばを的確に表現し、また無常を徹底し乗り越えた明るい世界感を提示しているではないか。だがこれも待てよ、神仏をもなきものとする無常、ニヒリズムを持ち出しながらその延長上に考えを展開できず仏の教えに頼る結末になっている。やはり中途半端にしか理解できないのだろう。どうあがいても仏様の手のひらの上のこととして、とりあえず分かったことにして終わりにしよう。

補足(古典にみる無常、そして永遠)
本文では無常を徹底し乗り越えることとはどういうことか、無謀にも挑戦し書いた。
最後は、仏教のことば「空即是色」にその答えを頼ったのだが、自分のことばで語るには至っていない。これは色に惑わされる凡夫なるが故の言いわけだが、古典をみても無常を語る事はできても、また或いはその背景として横たわる永遠を表現できても、能動的世界観までは語れていないのではないか。誰しも到達できていない世界観なのだということで気を静めたい。世阿弥の言葉に解を求めたいがここでは断念する。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」 鴨長明『方丈記』(鎌倉時代)、「それ行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず。流れに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結んで、久しく澄める色とかや。」 世阿弥『養老』(室町時代)

補足(方丈記にみる無常感の無常性)
方丈記作者はとてつもなく巨大な力で引き起こされる天変地異を目の当たりして人の世の無常を感じ、どう生きるかの答えとして、出家し人里離れた山中の簡素な住まいで執筆と音楽に興じる道を選んだ。しかし最終章では「そもそも一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとすうる。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれりとなり。今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂に着するも、障りなるべし、いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん。・・・ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申してやみぬ。」と正しい選択ではなかったのではないかと述べる。無常を感じないはずの悠悠自適な世界に入ったはずなのに人生の最終章においてまだ不完全燃焼で終わらざるを得ないという無常を感じているというのである。何という往生際の悪さなのだろうか。しかし方丈記は古典中の古典である。そう解釈してはいけないのだろう。人の一生は好むと好まざるに関わらず大きな力に影響される。自然災害はもちろんのこと、そうでなくても人間関係、心持によっても影響される。自分の努力だけではどうしようもないこともある。そうした弱さ、往生際の悪さこそ人間であることの証と捉えれば、それをさりげなく、或いは恥じらいもなく描いていることが評価されていると考えるのが正しいのだろう。日本に生まれた以上、自然災害を決して忘れるな、或いはそうなったとしても乗り越えろという強いメッセージともとるべきなのだろう。

補足(古典にみる無常)
日本人ほど「無常」という言葉に異様に引き付けられる人種もいないのではないか。福沢諭吉はそんな性質を明治維新の頃に見抜いていたようだ。丸山眞男『福沢に於ける秩序と人間』によれば、「秩序を単に外的所与として受け取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換は個人の主体的自由を契機としてのみ成就される。独立自尊がなにより個人的自主性を意味するのは当然である。福沢が我が国の伝統的な国民意識に於いてなにより欠けていると見たのは自主的人格の精神であった」。グローバル化がますます進展する中で、今改めて認識すべき認識ではないだろうか。
by bonjinan | 2013-10-18 22:47 | 文化・歴史