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「林住期」考察

「今、私はなぜブッダを書かなければならないのか。
ブッダが、どこにもいないからである。
いくらさがしても見つからないからだ。
その人は、いつも姿を隠している。」
こんな書き出しで始まる書がある。
山折哲雄『ブッダは、なぜ子を捨てたのか』集英社新書2006年だ。
シャカ族の王子でありながら、妻子を捨て、父母を捨てた若き日のブッダ。
身勝手な青年ブッダの姿を描きながら、今ブッダはどこにいて、何を伝えようとしているのかに思いを巡らす。古代インドでは人生のあり方を「学生期」、「家住期」、「林住期」、「遁世期」の4段階に分けて考えていたという。「家住期」は結婚し子どもをつくり職業に従事する時期なのだがこの時期を放棄し「林住期」すなわちこれまでやろうとして果たすことのできなかった夢を実行に移そうとするステージに飛び込み、最後はブッダガヤの菩提樹の下で瞑想に入り悟りを拓いた、即ち一握りの人間だけが到達するとされる「遁世期」に入ったとされる。凡夫の私には、本書を何度読んでも、ブッダの生き方をとても理解できない。あえて言うならば動かしがたいカースト制の枠組み、生と死、善と悪、理性と本性など対極となるものが日常生活の中で混然一体と繰り広げられていたであろう古代インドの風土がブッダを万人を代表して非情の道に進ませ、後世の人びとに真なるものを追及させようとしたのだくらいな台詞しか思いつかない。山折先生は原初インド仏教が「無我の仏教」とすれば日本仏教は「無私の仏教」「心の浄化を志向した仏教」だとも仰っている。我々定年退職後のステージすなわち「林住期」をどう過ごすかを考えてみる時、「無私の仏教」はむしろ能動的な生き方、健全な生き方を我々に促していると考えたい。山折先生は本書の最後で、京都の寺をまわりながら「阿弥陀如来や釈迦如来は、もうお堂の中にはおいでにならないかもしれない。薄暗い、狭い空間の中では身じろぎもままならぬ、息苦しいだけだ、とお感じになっているかのようだ。それで仏・菩薩たちは、今やそのような閉ざされたお堂から脱出して、広々とした庭のほうに移動されているのだろう。・・・・・・」人びとがお堂から足早に抜け出し縁側に向かう姿から「人びとの流れは、その仏・菩薩たちの声を庭の中に聞き、その庭をとりまいている大自然の中に、ブッダの気配を感じはじめているのではないだろうか。」と結んでいる。ところで近年、「少子高齢化」がもたらす経済の停滞、社会保障費の増大、財政悪化、増税など経済問題だけがクローズアップされるのだが、生き方の観点からはあまり議論されてはいない。
厚労省人口動態調査によれば2005年以降、「生まれてくる者より死者が多い社会」になっている。
これからさらに差は大きくなっていくだろう。人間の生死だけで考えると喜びより悲しみが大きい社会に向かっているとも言える。悟りを拓く「遁世期」を求めずとも、それが「家住期」に、或いはもっと「学生期」に後戻りするようであってもむしろ明るい能動的な「林住期」の過ごし方が求められているような気がする。
by bonjinan | 2012-01-15 10:50 | 読書