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カテゴリ:文化・歴史( 108 )

2016年、ノーベル賞

2016.10.3 ノーベル医学・生理学賞に大隅良典氏
2016年ノーベル医学・生理学賞に大隅良典(71)、東工大栄誉教授に単独授与された。受賞理由は、オートファジー(Autophagy、日本語では自食作用)と呼ばれる、細胞が持っている細胞内の不要になったタンパク質などを分解するメカニズムを解明したことによる。タンパク質は合成されるのと同じだけ分解されており、体内でバランスがとれているという。オートファジー機能の異常は、神経疾患やがんを引き起こすと考えれており、その治療法の開発が期待されている。大隅先生の話を聞いていると、自分自身の興味を持ったこと、他人のやっていないことに集中した結果のようだ。凡人は脚光を浴びている流行に乗りたがり、そして流れに埋没し、やがて流行は去り忘れ去られる。昨年受賞した大村先生も大隅先生と同じような研究姿勢であった。大隅先生の受賞を機会に若い人には生き方として改めて考えてもらいたいと思う。
気になるのはノーベル賞受賞がこれからも続くかということ。近年の状況をみるとかなり難しくなってきていると言われている。①大学でも企業でも流行りのテーマ、それも商品化を強く意識したテーマに集中するようになり、結果として基礎研究からはどんどん離れてきていること、②中等教育が受験のための教育となっており、知らないことを知る喜びを知らないまま過ごすつまらない期間になっていること、③4月一斉入社(先進国では日本だけ)の習慣が続いているために、大学に入ってしばらくすると就活、基礎をしっかり学ばないまま、学部生活を送っていること、有名大学生ほど大学入学時点で人生の頂点を迎えているのではないか、等々。気になる症状が散見される。話はそれるが、雇用の流動性と職業の高度化は時代の要請。これには教育制度改革(別途所見)も必要とするが、まず企業の通年採用から手を付けるのが良い。同一時期大量採用がその後の使い捨てにつながり、職の不安定化を招き、社会全体では生産性を低下させていることになる。企業も一人ひとり丁寧に面接し、納得のいく採用をすることがその後の生産性を高めることにつながるだろう。
参考:http://www.nobelprize.org

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by bonjinan | 2016-10-03 18:58 | 文化・歴史 | Trackback

ポンピドゥー・センター傑作展

「ポンピドゥー・センター傑作展」(2016.6.11~9.22)東京都美術館に入った。1900年代初頭から70年代まで、1年ごとに1作家の1作品を展示している。フランス20世紀美術をタイムラインに沿って堪能できる。1年1作家1品、選者の努力が伺える。それとこの美術展の良さは、巨匠の言葉が作品に添えられていること。作者はどのような思いで描いたかなど、作者自ら作品の前に立ち解説してくれているような気分にさせてくれる。モダンアートを身近に感じさせてくれる美術展であった。
以下、メモ。
①マルク・シャガール(1887-1985)
展示作品「ワイングラスを掲げる二人の肖像」(1917~18)
言葉「私を空想的だと言わないでください。その反対で、私はレアリスト。私は大地を愛しています」。展示作品の背景にはしっかり故郷の町が描かれている。
②パブロ・ピカソ(1881-1973)
展示作品「ミューズ」(1935年)
言葉「私は、他の人たちが自伝を書くように絵を描いているのです」
展示作品からは悩めるピカソの自画像のようにも思えた。
③アンリ・マティス(1869-1954) 
展示作品「大きな赤い室内」(1948年)
言葉「私は色彩を通じて感じます。だから私の絵はこれからも色彩によって組織されるでしょう」
展示作品からは、色彩なくしてマティスなし、マティスなくしてこの色彩なしと思えた。

参考:東京都美術館ホームページ
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by bonjinan | 2016-06-23 11:32 | 文化・歴史 | Trackback(1)

重力波を初観測

米研究チームが11日、宇宙からやってくる「重力波(gravitational wave)」を観測したと発表した。重力波はアインシュタインが1916年に存在を予言した現象。質量を持った物体の周りでは空間がゆがみ、重い星やブラックホールが合体したり動いたりすると周りの空間が伸び縮みし、その歪みが水面の波のように広がっていく。その波が重力波と言われている。米研究チームは「LIGO」と呼ぶ1辺4キロメートルの巨大なL字型観測装置を建設(結節点から両端までの距離を等しくしておき、X軸Y軸の距離のズレから重力波による空間のゆがみを観測しようとする装置)。今回捉えたひずみは今から13億年前に太陽の29倍以上の質量がある2つのブラックホールが合体した時に発生した重力波とみられている。東大宇宙線研究所も観測装置「KAGRA」を建設し初観測しようとしていた。先を越されて残念ですが再確認と新たな視点で研究して貰いたい。 参考:東大KAGRAホームページ
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by bonjinan | 2016-02-12 09:36 | 文化・歴史 | Trackback

始皇帝と大兵馬俑展

東京国立博物館で開かれている「始皇帝と大兵馬俑」展(2015.10.27~2016.2.21)に入った。
春秋・戦国時代の小国から巧みな連衡策によって巨大帝国にのし上がった秦(紀元前778-紀元前206)時代の歴史遺産が鑑賞でき、中国大陸を初めて統一し始皇帝と名乗った(紀元前221)頃の栄華、権力を垣間見ることができた。
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   記念撮影コーナーの兵馬俑(レプリカ)

以下、記憶に残る名品。
秦の歴史と領土拡大を祈願した銘文が記された「秦公鐘」青銅器、前8~前5世紀
「加彩陶壺」陶製彩色、前7~前6世紀
「金銀象嵌堤梁壺」青銅、金・銀象嵌、前5~前2世紀
度量衡を統一し始皇帝と記しまさに権力の象徴ともいえる「両詔権」(重さの規準)青銅、前3世紀
同、「両詔量」(容積の規準)青銅、前3世紀
貨幣「半両銭」青銅、前3世紀
中央集権制の一端を表す「内官丞印」封泥(紐で結んだ竹簡を巻き封印した)土製、戦国~前3世紀
高度なインフラ技術を表す「取水口」「L字形水道管」「水道管」陶製、戦国~前3世紀
特別展の目玉「銅馬車」(複製)青銅製、彩色、前3世紀、始皇帝陵銅馬車抗出土
同「永遠」を守るための軍団「兵馬俑」陶製、前3世紀、始皇帝陵出土

参考:東京国立博物館ホームページ

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by bonjinan | 2015-12-06 19:39 | 文化・歴史 | Trackback

モネ展@東京都美術館

「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」(東京都美術館、9/19-12/13)に行ってきました。浮世絵など日本文化に大きく影響されたモネの絵には自然美への憧憬という点において日本人と相通じるものを感じるからだろう、展覧会の終盤ということもあってたくさんの方が行っていました。
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今回のモネ展はパリ・マルモッタン・モネ美術館が所蔵するクロード・モネ(1840-1926)が亡くなるまで手元に残した作品、約90点の展覧会。モネ自身が愛し自身の進化を確認したかった絵ともいえる。印象主義の名前の由来となった≪印象、日の出≫1873年、は≪ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅≫1877年、に入れ替えになっていたが、朝の港、機関車という違いはあるものの時々刻々と変る変化(光の変化、蒸気という見えていたものが一瞬に消えてしまう変化)、その場の空気感を描こうとしていることではまったく同じである。旅先で描いた≪オランダのチューリップ畑≫1886年、では降り注ぐ光、水の流れ煌めき、チューリップを揺らす風などを感じる。印象派の特徴といわれる色彩分割、分割筆触によって光のゆらぎ、振動を感じるからであろう。モネはジヴェルニーの庭に作った池の睡蓮を200枚以上も描いているが≪睡蓮≫1903年、では睡蓮というより水面に映る枝垂れ柳(あるいはポプラ)を興味津々に描いている。自然を深く観察しようという姿が感じ取れる。白内障を患っていた晩年の大作≪睡蓮≫1917-19年、100×300cm、これだけをみると抽象画そのものですが常識や権威に束縛されずに自由に描こうとする精神、迫力が伝わってくる。先日、画家・千住博氏の講義を聴く機会があった。千住氏は「芸術とは自己表現ではない。どのような世界に生きているのか、そしてどのような世界を指向しているのかの世界表現だ。徹底した観察を通しての普遍性、リアリテイを持ち合せているか、独創的なメッセージが含まれているかによって作品の質が決まる」というようなことを仰っていた。この論に従いモネの絵から伝わってくるたメセージを考えてみると、機械化=近代化への問いかけであり、自然をもっともっと愛せよ、そして一番大切にすべきは平和、自由であると思えた。
参考:東京都美術館ホームページ


補足:印象派の色彩を考える材料
[歴史]
ロジェ・ド・ピール(1635-1709)『絵画の諸原理』:素描に対して色彩を重視。
色彩論争(仏1670年代から1690年初頭:ローマ・フィレンツェの素描派とヴェネツィア・フランドル派の色彩派の論争
物理学者・アイザック・ニュートン(1642-1727)の光のスペクトラム分析:光は7色からなる。
作家・科学者・ゲーテ(1749-1832):『色彩論』、眼がどう認識するかに注目。眼は調和を求めている。三原色と補色。色相環。そのた順応、対比、残像。
物理学者・トマス・ヤング(1773-1829):三原色:赤・青・黄を三原色として発表。一方でヤングは光の干渉現象から光の波動説を唱えたことでも知られる。
化学者・シュヴルール(1786-1889):『色彩の同時的コントラストについて』並置された二つの色彩を同時にみるとき、実際のそれぞれの色彩そのままとは異なってみえる。
物理学者・ヤング・ヘルムホルツ(1821-1894):色覚は赤・青・緑の三色で認識。
色三角形を描いた。三色説は別名、ヤング・ヘルムホルツ説とも呼ばれる。ちなみに古代日本の色を表す言葉は「あか」と「あお」2色であった。あかは本々明るいの意味で、あおは黒と白の中間の色を表す言葉だった。
画家・アルバート・マンセル(1858-1918):色の三属性(色相、明度、彩度)を色立体で表した。
[技術論]
減法混色:色材を混ぜるほど黒くなる。すなわち光の吸収量が大きくなり反射量が減る。
加法混色:光の三原色をあてると白くなる。
並置加法混色、視覚混合:色の三原色の点、或いは細い線をみれば眼が混色し白く明るく認識する。
点描画法、色彩分割、分割筆触:色材は混ぜると暗くなる。混ぜなければ明るく見える。
(典型例)スーラ『グランド・ジャネット島の日曜日の午後』(1884-1886年)
補色:補色の関係にある色材を混ぜると灰色になる。対比させれば鮮やかにみえる。
同化、対比:色彩対比を小さくしての近似調和、大きくしての対比調和。
(典型例)モネ≪印象、日の出≫(1873年)、太陽の光がまだ弱い朝の雰囲気を近似調和で表現。
進出色と後退色:色彩の遠近法
(典型例)ゴッホ『夜のカフェテラス』(1888年)
参考:布施英利『色彩がわかれば絵画がわかる』光文社新書(2013.12)ほか
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by bonjinan | 2015-11-24 08:24 | 文化・歴史 | Trackback(1)

琳派展&曜変天目茶碗@静嘉堂文庫美術館

静嘉堂文庫美術館(世田谷区岡本)でリニューアルオープン展「宗達・光琳・抱一をめぐる美の世界、金銀の系譜」が開かれています(2015.10.31~12.23)。これまで観てこなかった琳派の絵を楽しむことができました。以下、代表作を振り返ってみたいと思います。
①俵屋宗達≪源氏物語関屋・澪標図屏風≫(国宝、六曲一双、紙本金地着色、江戸17世紀)
右隻は『源氏物語』16帖「関屋」、源氏が栄達のお礼参りに石山寺に参詣した際、逢坂の関で空蝉と偶然に出会う場面、左隻は同14帖「澪標」で住吉明神にお礼参りした際、明石の君の乗る舟と出会う場面。特徴は右隻、左隻とも主役を描がいていないこと。物語をより詩情性豊かなものにしている。右隻、左隻で山と海、直線と曲線など対比的な表現をしていること。特に左隻の曲線を描く白い砂浜は印象的。大和絵の古典的画題でありながら伝統の枠にとらわれない自由な精神が感じられる。今回の公開は3年の修復を経ての公開。修復過程も説明されている。なお修復過程で右隻第6扇下に紅葉した葉が舞い落ちている様子が描かれていることも判明、修復後の絵では隠れていた部分も観ることができる。
②伝尾形光琳≪鶴鹿図屏風≫(二曲一双、紙本金地着色、江戸18世紀)
右隻に桜と鹿を描き春の風景、左隻に紅葉と鶴で秋の風景を描く。金地に柔らかな曲線で描くさまは華麗であり、①と並び京琳派の雅さを代表するような絵である。
③酒井抱一≪波図屏風≫(六曲一双、紙本銀地墨着色、江戸19世紀)
師と仰いだ尾形光琳の≪波濤図屏風≫(二曲一隻、金地、現メトロポリタン美術館蔵)に着想を得て描いたとされる。葛飾北斎≪富嶽三十六景・神奈川沖浪裏≫(江戸19世紀)に描かれたような大波ではなく、夜の月明かりに照らされた海なのであろう。どこか静かな感じさえする。しかしゆるやかではあるが六曲一双の大画面でみる波には力強さがある。じっと眺めていたくなる絵である。実は今回の展示会を観るに当たり最も気になっていた作品であった。銀地ならば時間が経てば酸化して黒ずんで墨絵が分からなくなってしまうはず。このことは抱一も承知していた上で描いたはずと。でも実際に観てみると銀色に輝いてはいないまでもむしろ落ち着いた雰囲気を醸し出しているではないか。描かれた時と同じではないかと思えてきた。学芸員さんによると銀箔の上に何かコーティングされているのではないかとのことだった。そうかも知れない。
ほか④尾形光琳≪立葵図≫(紙本墨画淡彩)、⑤酒井抱一≪絵手鑑≫(抱一が幅広く画風を学んでいた頃の画帖)⑥鈴木其一≪月下三美人図≫、宗達が率いる絵屋「俵屋」の商標的印章「伊年」印が押された≪四季草花図屏風≫などが印象に残る。
(注)本ブログタイトル「琳派展」は公式タイトルではありません。

補足:建窯≪曜変天目茶碗(稲葉天目)≫(国宝、南宋12~13世紀)のこと
漆黒の茶碗の内側に星のような斑紋が散らばり光の当たり具合によって虹色に輝く不思議な茶碗。世界で3点しかないと言われる器の一つ。改めて見てみると斑紋は全体として藍色だが光により不思議な光彩を放つ。解説パネルに「構造色」と書かれていた。構造色は玉虫や孔雀の羽の輝きと同じく、色素ではなく光の波長レベル(紫:約380~赤:780nm)の微細構造がもたらす光の干渉で生じる色。ただどのような微細構造が隠されているのかまったく分からない。世界中で破片も発見されておらず誰も分解調査しているわけではないので、本当のことは分からない。偶然にできたものなのか、意図して造られたものなのか不思議な茶碗である。

参考1:静嘉堂文庫美術館ホームページ、上記展示会リーフレット
参考2:2015.9.8ブログ記事「琳派400年記念展」
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by bonjinan | 2015-11-06 10:17 | 文化・歴史 | Trackback

2015年ノーベル賞

2015.10.5 ノーベル医学・生理学賞に大村智氏
2015年ノーベル医学・生理学賞に大村智(80)、北里大特別栄誉教授ら3人に授与された。
微生物(放線菌)が作りだす薬用物質「エバーメクチン」を発見し、線虫を原因として人や家畜に引き起こすオンコセルカ症、リンパ系フィィラリア症の根絶薬「イベルメクチン」(米製薬大手メルク社)の開発につなげたことによる受賞。当時メルク社で「イベルメクチン」を開発したウイリアム・キャンベル氏(85)、マラリアの効果的治療薬を開発した屠氏とともに受賞が決定した。大村先生は大学卒業後、夜間高校で教鞭をとる傍ら理科大大学院で勉強したなど、決してエリートコースを歩んできたわけではない。しかし「人の役に立つ」を信条に「人まねではない」自分の道を歩まれてきたと言われる。私を含めて多くのひとは、流行を追い他人と比較し思うようにいかないことで挫折する。先生の人生観は多くの人に勇気を与える。
参考:http://www.nobelprize.org

2015.10.6 ノーベル物理学賞に梶田隆章氏
2015年ノーベル物理学賞に梶田隆章氏(56)、東大宇宙線研究所長ら2人が選ばれた。
梶田氏はニュートリノの質量は0ではなく質量があることを振動現象(ニュートリノがミュー型、電子型、タウ型の間でタイプが変わること)を観測することで実証した。小柴先生、戸塚先生の研究成果の上にさらに進化させた研究成果。梶田先生は基礎科学で大村先生は実学での受賞。層の厚さが光る。今回の受賞でチャレンジすべき領域は足元からも無限に広がっていることを知らされる。昨今、わけのわからない政治の世界の政治力学、経済の世界の成長論に明け暮れていただけに晴れ晴れした気分にさせてくれる。まことにお目出度い。ただ考えなければならないのは、受章された研究は20~30年前の成果。近年ますます短期的成果が求められるなかで流行を追うだけでになっていまいか。それが問題だ。
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by bonjinan | 2015-10-06 19:02 | 文化・歴史 | Trackback

琳派400年記念展

琳派の祖といわれる本阿弥光悦(1558-1637)が京都・鷹峰に「芸術村」を開いてから今年は400年ということで各所で記念展が開かれている。東京では山種美術館で「琳派400年記念、琳派と秋の彩り」が開催されている(9/1~10/25)。有名な作品、二点から琳派を考えてみようと思う。
①俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書)≪鹿下絵新古今和歌巻断簡≫
「こころなき 身にも哀れは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ」(西行法師)
(『新古今』の秋歌28首を記した長巻巻頭の絵、書)
琳派を代表する画家は俵屋宗達(生没年不詳)、尾形光琳(1658-1716)、酒井抱一(1761-1828)と連なる。琳派のもう一人の祖とされる宗達の絵を有名にしたのは自身の扇絵であったが、さらに世に知らしめたのは寛永の三筆と称された書家の一人、光悦が宗達の料紙を好んで用いたことからでもあった。①では琳派の源流となる光悦と宗達の絶妙なコラボ、琳派の絵と和歌の世界の相性の良さを確認できる。和歌の世界では春秋を題材としたものが多く、『新古今集』でもそうで歌数では秋の歌が多い。秋はそれだけ情趣あふれる季節ということだが、琳派の描く四季も秋は特に趣深い。本作品では琳派の表現法の一つとされる「たらし込み」も見られ、それが書との親和性を高めていることがわかる。
②酒井抱一≪秋草鶉図≫
琳派の秋を象徴するような作品である。秋草と鶉を克明に描く一方、遠くにあるはずの、そして白く見えるはずの月をデフォルメし、すぐそこにあるかのごとく大きく、そして黒く描くことで、面白い絵になっている。そもそも月は元々は銀色だったものが酸化して黒くなったものなのか、銀色だたっとするなら、さらには月がそもそもそこに無かったならどういう世界になるのだろうかなど、特徴のある月があることによって、この絵から連想される物語の世界はどんどん広がる。筆者はまず大きな月があることについては、遠近法的にはありえない大きさですが、遠くにある月をも友として近くに呼び寄せ、秋の夜長を自然とともに楽しみたいという感覚、意図からと思う。月の色については、最終的には顔料の銀が黒に変色することを承知の上で、最初は銀色、すなわちその色合いの変化も楽しめるように工夫したと考えたい。
③琳派の絵について
琳派の絵は「装飾性」「意匠性」ということばでよく表現される。ただそれだけでは現代の「商工業デザイン」と区別がつかない。①特に②をみれば、筆者はこれに加えて、作者、観る人双方にとっての表現、解釈の「自由性」、「物語展開性、詩情性」を加えたくなる。なお琳派を語る場合、京琳派、江戸琳派という分け方もあって、京琳派が雅、江戸琳派が粋と表現される。①②の作品をみるとその通りにも思えるが、宗達が無名の時期に描いたとされる京都・養源院の杉戸絵≪白象≫≪唐獅子≫、もともとは千手観音の眷属として対になるべき千手観音がいない≪風神雷神図屏風≫などをみれば、「大胆な構図、構想力」を抜きにしては語れない。後に、北斎の大胆な構図にもつながり(『北斎漫画』にも風神雷神図あり)、それがひいては西洋画壇にも大きな影響を及ぼしたことを考えると、「装飾性」「意匠性」を越えた「創造性」という絵画の本質的要件を兼ね備えていることも忘れるべきではないだろう。  参考:2014.11.23ブログ記事「養源院」
参考:山種美術館ホームページ

参考
京都国立博物館「琳派 京を彩る」(2015.10.10~11.23)
静嘉堂文庫美術館「金銀の系譜~宗達・光琳・抱一をめぐる美の世界~」(2015.10.31~12.23)
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by bonjinan | 2015-09-08 11:40 | 文化・歴史 | Trackback

前田青邨ほか展

山種美術館で「生誕130年記念・前田青邨と日本美術院展」(2015.6.27-8.23)が開催されている。構成は、第1章として日本美術院の開拓者たち横山大観、下村観山、菱田春草らの作品、第2章として青邨と日本美術院の第二世代の小林古径、安田靱彦、前田青邨らの作品、第3章として紅児会の仲間と院展の後進たち、速水御舟らの作品が展示されている(画家の順は概ね生誕順)。
気になった作品。青邨≪蓮台寺の松陰≫(1967年)、≪大物浦≫(1968年)、大観≪燕山の巻≫(1910年)、≪作右衛門の家≫(1916年)、観山≪老松白藤≫(1921年)、春草≪釣帰≫(1901年)、≪月下牧童≫(1910年)、古径≪菖蒲≫(1952年)、安田靱彦≪平泉の義経≫、御舟≪炎舞≫(1925年)など。観山≪月下牧童≫では朦朧体(もうろうたい)と言われる線なしの濃淡、色彩の変化でその場の空気を描こうとした試みを存分に楽しむことができた。青邨≪蓮台寺の松陰≫はいわゆるやまと絵に属するのかも知れないが松陰の心のうちまでも覘かせるような作品であった。静寂な美術館で静かに日本画を楽しむことができた。 参考:山種美術館ホームページ
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by bonjinan | 2015-07-24 20:28 | 文化・歴史 | Trackback

バラにまつわる話

文学の歴史で初めてバラが登場したのは『ギルガメシュ叙事詩』だと言われている(Wikipedia”バラ”)。楔形文字で書かれた『ギルガメシュ叙事詩』は紀元前1800年頃、メソポタミアでそれまであったいくつかのギルガメシュ伝説が一つの話としてまとめられたもの。同書を読んでみると、危機を乗り越え不死の生命をもたらす植物は、深海に生える植物であり、バラそのものではないが、バラに似た架空の植物であることが知れる。それにしても美しいが棘あるバラは花の中でも特別な植物として意識されていたことは間違いない。

月本昭男『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店(1996)より、
「ギルガメシュよ、わしは隠された事柄を明かそう。
〔生命の秘〕密をお前に語〔ろう。〕
その根が棘藪のような草がある。
その棘は野薔薇のように〔お前の手を〕刺す。
もし、この草を手に入れることができるなら、〔お前は〔不死の〕生命を見出そう。〕」
・・・・・
それら(=石)が彼を深〔淵〕に引き込むと、〔そこにかの草があった。〕
彼はその草を取ると〔棘が彼の手を刺〕した。
彼はそれらの重い石を〔足から〕はずした。
〔深淵の〕海は彼を岸辺に投げ出した。
ギルガメシュは彼、舟師ウルシャナビに語った。
ウルシャナビよ、この草は危機〔をこえるため〕の草だ。」
それによって、人は生命を得る。
わたしはこれを囲いの町ウルクに持ち帰り、
老人にそれを食べさせ、試してみよう。
その〔草の〕名は「老いたる人が若返る」。
わたしも〔それを〕食べ、若き時代に戻ろう。」
・・・・・
ギルガメシュは冷たい水をたたえる泉を見て、
下って行き、水で身をきよめていた。
一匹の蛇がその草の香りを嗅いで、
〔音も〕なく忍び寄り、草を取り去った。
戻って行くとき、それは皮を脱ぎ棄てた。」

では絵画で初めてバラが登場するのはとなると、エーゲ文明のうち紀元前2000年頃、クレタ島で栄えたミノア文明の遺跡、クノッソス宮殿のフレスコ画に、青い鳥とともに描かれた花が最初だという(日本ばら会HP)。私のような素人がみると葉がオリーブのようでもあり、特定の花ではなく、楽園の象徴としての花とみえるが、古今東西の識者がバラと鑑定しているのでそうであろう。

その後の歴史を辿ると、クレオパトラ(前69-前30)のバラ好き、皇帝ネロ(37-68)のバラ狂い、歴史を下って、ダンテ(1265-1321)の『神曲』における「天上(至高天)における純白の薔薇」、ボッティチェリの描いた「ヴィーナスの誕生」(1485年頃)、シェークスピア(1564-1616)がしばしばバラを作品に登場させていること、ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ(1763-1814)のバラ好きなどバラにまつわる話は数知れない。ただ分からないのは、クレオパトラの時代において、私たちが今日みるような、そして誰をも魅了する大きな花弁のバラだったのだろうか。もしクレオパトラが部屋一杯にバラの花を敷き詰めカエサルやアントニウスを迎え入れたとすれば、常識的にはその頃から大きなバラが栽培さていたはずだ。確かに中東が原産と言われるダマスクローズのような比較的大きなバラもあったがそれでも現代のバラと比べると美しさにおいて大きさにおいて劣っていたのではないか。それに大々的にバラの人工交配が行われるのはジョセフィーヌの生きた時代からの筈だ。そうだとするならば、敷き詰められたバラは花弁だけではなく棘付枝のバラで大輪のバラこそクレオパトラと演出したかったと考えたらどうだろうか。そもそも数ある花の中からなぜバラは人々を魅了してきたのだろうか。今日みるような大輪の花であったからではなく、バラの魅力は棘とともにあり、容易に手にすることのできない象徴的な花として、人々は考えてきたのだと考えたい。そういえば最近、デパートの屋上庭園にトゲナシノイバラがあった。子供たちをケガさせない配慮からだが、棘がないと知るやどこにでもある花と思えてならなかった。ただしこれはバラに自己主張の強い花との先入観があるからかも知れない。秋篠宮眞子さまのお印、モッコウバラ(木香茨)には棘がない。誰からも愛されることを願って両親が決めたのだろう。いづれにしてもバラには棘があると思われているからこそできる演出なのだ。

(補足)至高天
地獄界と煉獄界(浄罪界)の存在する地球を中心として、プトレマイオスの宇宙観に基づき太陽を含む遊星が回り、その外側に恒星天、原動天、至高天(エンピレオ)があるとする。
ダンテは神と天使たちと聖者が住む最上界の至高天に辿り着き、純白の薔薇を見、この世を動かすものが神の愛であることを知る。
「かくてクリストがその血をもって、新婦となし給うたかの聖軍(天上に住む聖者たち)が純白の薔薇の形になって私に現われた。」(天道編第31歌、野上素一訳『ダンテ』筑摩書房)
「私の高い空想力はここにいたって力が不足した、しかしすでに私の願望と意志とは、さながら等しく廻る輪のように太陽ともろもろの星を動かす愛によって廻っていたのである。」(同33歌)

日本におけるバラの初めて物語
わが国の文学史上、はじめてバラが表われるのは奈良時代に編纂された『万葉集』のようである。
ただし、万葉集に詠まれた植物は約150種、歌数は約1700首と言われているが、野生の薔薇、野バラ(ノイバラ)が茨(むばら)として歌われるものの2首程度と極めて少ない。ノイバラは日本原産と言われており、万葉集が編纂される前からすでに日本にあったはずであるが、万葉人の心を強く動かすまでには至らなかったようだ。
「道の辺の茨(うばら)の末(うれ)に延ほ豆のからまる君を離(はか)れか行かむ」(丈部鳥、万葉集)離れがたき気持ちを棘あるバラに絡みつく豆で歌いこんでいる。バラの最大の特徴は棘と捉えたようだ。平安時代になると、薔薇(さうび、しゃうび)として表現され、『源氏物語』にも書かれている。「階(はし)のもとの薔薇(さうび)、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきなるに、うちとけ遊びたまふ」(第10帖賢木巻) (注)階(はし):庭から建物に上がる階段。きざはし。この時代になると、中国から渡来したであろうバラが鑑賞用として屋敷の庭に栽培されていたと推定され、「春秋の花盛りよりも」とあるので四季咲きのバラで、コウシンバラ(庚辰薔薇)ではないかと言われている。
では絵画の方はどうだろうか。
伊達政宗公嫡孫「光宗公」の菩提寺・円通院(松島)にある霊廟・三慧殿の逗子に描かれたバラが日本最初のバラの絵と言われる。慶長遣欧使節団(1613-1620)を率いた支倉常長がヨーロッパから持ち帰った「日本最古の洋バラ」をモチーフとして描かれたもの。バラの花はローマ帝国以来、ローマを象徴し、同じく描かれた水仙はフィレンツェを象徴する花として描かれたという。その後の様子をみると、江戸後期に植物図鑑である岩崎灌園『本草図譜』(1828年)が著され比較的大きなサイズの黄薔薇が描かれ紹介されている。鎖国ながら長崎を通して入ってきたのだろう。ただしバラが大きく注目されるのは文明開化で西洋文明が盛んに流入するとともに洋バラが輸入され栽培されるようになった明治期と思われる。この時期には井関十二郎『最新薔薇栽培法』青山嵩山堂(1903年)などの著作も出版されている。最近では、宇宙飛行士の向井千秋さんがスペースシャトルで無重力状態下でバラの開花実験を行ったこと、サントリーにおける「不可能なこと」を意味すると言われた青バラの作出など、最先端技術に関連した話題が多くなっている。
参考:松島・円通院ホームページ2011.6.16ブログ記事(松島)2010.11.17ブログ記事(青いバラ)

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by bonjinan | 2015-05-15 11:35 | 文化・歴史 | Trackback