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歌枕にみる不思議

昔、高校で古文を習った程度の知識しかない者が大それたタイトルで書くのは畏れ多いが、浅学ゆえの疑問があり、書き留めてみたいと思う。「歌枕」とは昔から和歌に詠まれた名所のことですが、貴族社会で和歌が良く詠まれた鎌倉初期以前でみると、今の東京辺りには歌枕の地はほとんどなく、東国のさらに奥である今の宮城には結構多く、また美しく詠われている。不思議である。以下、一笑に付して欲しい。
①武蔵の国の認識
伊勢物語(平安中期)によれば、主人公と言われる在原業平(825-880)が角田河(今の隅田川)のほとりで、「かぎりなく遠くも来にけるかな」と、まるでこの世の果てかの如く嘆いている。
更級日記(平安末期)によれば、菅原孝標女は上総の国、今の千葉に住んでいたにも関わらず、京への憧れが強かったこともあって、「東路の果てよりも、なお奥つかたに生ひ出でたる人、・・・」と田舎であることをことさら強調し、更には「今は武蔵の国になりぬ。殊にをかしきところも見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も蘆・・・」と見るべきものは何もなかったと書いている。こんな調子だから更なる奥地、今でいう東北地方のことなど興味もないと言わんばかりだ。新古今和歌集(鎌倉初期)でも「武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲」(道方)「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影」(藤原良経)など、武蔵野は何もなきところとしての歌枕なのだ。住んでいる人からすれば迷惑な話だ。
②宮城の歌枕
伊勢集(平安中期)「塩竈の浦漕ぎいづる舟の音は聞きしがごとく聞くはかなしや」(伊勢)
小倉百人一首(鎌倉初期)では「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(清原元輔)同「見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず」(殷富門院大輔)。美しい恋歌として使われている。武蔵野とは大違いだ。武蔵野からはさらに遠く、そう簡単には往来できな
かった時代に、なぜ美しく描かれたのであろうか。末の松山を越える波とは貞観地震(平安初期)で起こった大津波を指すと言われているから、犠牲者が沢山でたであろうことを思えば、恋歌に使うとはいささかやり過ぎのような気すらするのだが・・・。もう少し南の福島でも「陸奥のしのぶもぢ摺り誰ゆえに乱れ初めしに我ならなくに」(源融)とここでも恋歌として使われている。もちろん東北の歌枕は宮城に限った話ではないのだが圧倒的に多く詠われている。

③論拠もない勝手な想像
人が未練を感じるうちは、まだ俗世の人である証拠だ。歌からすれば京から下り未練が残る限界の地が武蔵野であったことが知れる。しかしその限界を過ぎると、生と死を直視した世界に入る。生きるためには新たな生きがいを見いださなければならない。都から下った役人がそんな気持ちから地元の良さを発見し都に伝えたのであろう。都の歌人は、聞くだけではあったが、美しいもの、行くことのできない遠い世界とから空想の世界を膨らませ恋歌として創りあげていったのであろう。もう一つ考えられる。海路を通じての伝承だ。京から陸路では武蔵野でもうウンザリだが、海路ならば着地が松島、塩竈だから安堵の気持ちも手伝って一層良きところとして思えたはずである。竜宮城とも思えたのかも知れない。その証拠とまでは言えないが、仙台平野から奥の地の歌枕はない。以上、勝手な想像であった。「知らぬが仏」。点と点を結び、全体像を描くような話しである。
補足
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(『後拾遺集』)の作者、清原元輔は清少納言の父君。貞観地震は貞観11年(869年)に起こっている。
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by bonjinan | 2012-11-06 10:52 | 文化・歴史 | Trackback
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